呉服屋さんネット 〜男着物、着物お手入れ・仕立て〜
お気楽旦那の徒然なるままに
9月30日(土)
人と人の間の作用は、接触点があって始めて起こる。人が人智で及ぼすことの出来る接触点における作用の角度は、空間360度中のただの1度の角度でしかない。多くの人はその接触点の1度の角度を全てと思いこみ、人智の全力をもって反応する。人智にとってそこには他の角度の存在する余地は無い。
だがここで知って欲しい。人智が自己を拘束しているたった1度に対して、残りの359度は全くの自由であることを! 自己を構成する空間の全体性は完全な360度であるはずだ。そうであるならば、自己の本質の99%以上は自由なのだ。その自由を奪っているのは他ならぬ自分である。接触点で作用するこの1度の角度は重要である。しかし、残り359度は全くの自由であることを知ることは、それ以上に重要なことだろう。人智で認識した有の残りの無にこそ、自然、舒展、自由の鍵がある。自己の虜囚になったり、自分を縛る必要など何処にもないのだ。

9月29日(金)
昨日は光岡先生の少人数KSK。脊椎さんも同行してくれかなり贅沢な会となった(有り難うございますm(__)m)。昨日のお話の中で特に心に残ったのは「無から有を生む」ということ。デカルトは「ゴギト・エルゴ・スム」(我思う、故に我在り)と言った。それは人を人たらしめる重要な要素ではあるが、忘れてならないのは、同時に「我思わざるところ、我在り」という人智の掬い残した所にこそ、我と言う本質の全体性が眠っているのではないか?と言うことだ。そして、その知をもって見えぬ部分にこそ、自然があり、舒展があり、真があるのではないか? それは、体認することは出来ても、さわって確かめも出来ず、知で認識も出来ない。まさしく人智にとっては無の部分である。
人はともすれば、知や力(実感)などの見える部分のみを、有の部分のみの認識を、全てとしてしまう傾向にある。
しかし有は無が生み出した、働いた結果でしかない。
ことの順序を間違えてはいけない。
有で無を生じさせたり、有で有にすりあわせたりするのではない。
無から有が生じるのだ。
しかもそれは同時に生起するのである。
もっとも大切なことは、無をいかに体認していくかというプロセスにこそある。
「ブタのふところ」にある言葉だが、
「人生や世界や自分に対する自分勝手な解釈を知恵で消し去ると、人生と私たちの本質はそのまんまで完全なのだと身体でまるごと気づく。なにも足さない、なにも引かない、すべてを得てなにも得るものはない。気づいた感覚もいつか身体の中から消える。私たちはどこにも何者にもとどまる必要はないのだ。」
※知恵で消し去ると書いている部分は人智という意味ではなく、仏学で言うところの智慧(真理を明らかにし、悟りを開く働き。宗教的叡知。六波羅蜜の第6)のことだろう。
だからこそ、色即是空、空即是色であり、空は無であり、色は有なのだろう。
と自分勝手に解釈して満足していた(^_^;)。それにしても、本当にHSYQは面白い。毎回書くことだが、これほどのものが現代に存在しうる事は奇跡に近いことだと改めて思う(必然なんだけどね(^_^)b)。ご縁をいただいたことに感謝してこれからも精進していかないとね(^_-)-☆。KSK後は近くの中華のお店「青葉」に。ここは中国政府公認の調理の師傅の呉さんがシェフで働いており、本格中華をリーズナブルなお値段で味わえ、とても美味しいので評判のお店(しかも呉(ウー)さんは形意拳の達人)。中国語のリンムー先生の奥様がお手伝いしている店で知り合いなのだ(^_^)b。数々の中華料理に光岡先生や脊椎さんも満足していただいたご様子。よかった、よかった(^o^)。光岡先生、脊椎さま今回も大変お世話になりました。次回もどうぞよろしくお願いします。

9月28日(木)
幼稚園の運動会が終わったので、10月4日のお月見茶会に向けて、年長さんのお運びの練習が火曜日から本格化。毎日お昼過ぎから小一時間お運びの練習を見に幼稚園に伺っている。今年の年長さんは去年と違って人数が少ない。去年は35人いたが、今年は19人!去年は去年で、最初は大変だったけど、少ないと、少ないで、2,3人元気のいい男の子がいると目立つこと(^_^;)(女の子は対照的にみんな大人しいんだ、これが)。ずっと落ち着きの無いふっくん(仮名)は、先生によると少しパニック症候群の気があるそう。 今日もお茶運びで友達に負けそうだからと、順番抜こうとして(^_^;)、先生に怒られ泣いていた。でも、失敗しても、泣いてもいいんだよ。お茶を運ぶことだって重要な事じゃない。お友達や、先生と、幼稚園でふっくんがみんなと仲良く気持ちよくするにはどうしたらいいかなといろんな出来事を通して考えてくれるきっかけになったら、このお茶会は大成功(^_^)b。そんなことを毎日幼稚園児から勉強させて貰っている。感謝、感謝である(^O^)。

9月24日(日)
先週台風で行けなかった高知に家族で向かう。須崎市の向こう土佐久礼の「黒潮工房」で鰹のたたき制作の体験を予約しておいたのだ。ワラ焼きの熱い炎を我慢して自分たちで作ったタタキを、冷水でシメず、まだ温かいまま、熱々のご飯にのせて頂く。うーん、絶品(^_^)v!!!5人前以上の量のタタキがあっと言う間に無くなる。十分満腹になったら、隣の温泉で骨休め。ふぅ〜極楽、極楽。一息ついて、ケーキで有名な「風工房」に立ち寄る。末っ子が楽しみにしていたイチゴショートは(季節外れなので)無かったが、十分美味しいケーキを一人2個づつ(@_@)!!ぺろりと食べて、店の前の海岸に。見慣れている瀬戸内の薙いだ海とは違う、荒々しい太平洋の波が海岸をえぐるように打ち付けて来ている。子どもたちと妻は、裸足になって(せっかく風呂に入ったのに(^_^;))、波と小一時間戯れていた。こうした平凡な時間につくづく幸せを感じる(年だねぇ(^o^))。近くの「大正市場」という町おこしの市場で地元産のウツボやシイラの唐揚げなどを買ってきて、海辺で食す。さすがに、地のものは美味しい。身体も動かしたし、お腹も十分すぎるほど一杯になったし(そりゃ食べてばっかりだからね(^_^)b)、最後は子どもたちのリクエストでボーリングに向かう。
親は既に胃袋的にも体力的にも限界で、スコアはボロボロ(^_^;)。
元気いっぱいの子どもたちは、いつの間にかガーター防止レーンも必要としなくなって、時たまストライクやスペアも出るのにはビックリ。
その内、子供に教えて貰うようになるのだろうね(^o^)。
子どもたちも満足出来たようだし、家族の思い出に残る今日は本当に楽しい一日だった。

9月23日(土)
土曜日は長男、次男の中学校の運動会。長男はこれで最後、次男は初めての運動会と言うことで、妻と末っ子とで応援に。車は近所迷惑になるので、2キロあまりの道のりをてくてく歩いて中学校に向かう。どうせいつものイベント事の時のように学校の壁際は路駐の車で一杯だろうと思っていたのだが、ついてビックリ(@_@)。一台も路駐がない!!どうやら、PTAと学校でそのあたりの周知徹底が行われたようだ。PTAの役員が見張りに立ち、路駐はもちろん、近所のスーパーの駐車場にも無断駐車していないらしい。今回は、いつもウロウロしている暴走族や不良の卒業生もいなくて、とても気持ちの良い運動会だ。生徒達ものびのび楽しんでやっているみたい。長男も、次男も本当に楽しかったらしく帰ってからもテンションが超高い(^_^;)。まあ、楽しくて良かったね。お疲れ様!!

9月22日(金)
独楽さんの日記で思い出した(←忘れていたのか!!)。今日は光岡先生がラジオに生出演!!放送局は福岡を中心に山口南部、佐賀、長崎、熊本、大分で視聴できるLOVE FMです。番組名は「ELAN VITAL」(生放送)。時間は22時〜24時で光岡先生の出演予定は23時10分〜23時50分らしい。番組は福岡地区以外の方もウェブラジオで放送から90日間視聴できるそうなので、HSYQ関係の皆さまチェックですぞ!そうそうPodcastもあったと思うので、iTunesでもたぶん聞ける。しかもiPodを持ってたら携帯も出来るお(^_^)b。

9月21日(木)
 「アインシュタインに聞いてみよう−勇気をくれる150の言葉」から
 
 わたしたちには
 理解できないものが存在し、
 それが最高の知恵と美として
 具現しているということ、
 人間の乏しい能力をもってしては、
 はっきりとは知覚できないものが
 あるのを知っていること、
 ―それが真の宗教心の核心です。
 そういう意味では、
 わたしは非常に信心深い人間です。
 
理解できないもの(=自然法則)が存在し、それが最高の知恵と美として具現(=原理・原則)している。と韓氏意拳を通じて、私にはそう理解されてしまう。最高の知恵と美として既に具現しているのだから、愚かしい人為でそれらを損なってはならない、傷つけてはならない。そして、人間の乏しい(知という)能力をもってしてははっきりと知覚できないものが在るのを知っていること・・・その礼節のある態度こそ自然を損なわず、傷つけないカギになるかも知れない。

9月19日(火)
昨日のKSKで、最も印象的だったことは、「意拳は生命の学術である」ということである。人は何時病気になるか、何時死ぬかは分からない。
だからこそ今、この瞬間、この刹那を自らの持てる最大の生命力を持って生き、それを表現するのである。その生命力を毀損するのは、他ならぬ自分自身である。場所に、時間に、心に妄執が生じた時、人は「今」を生きることをやめる。「今」を生きていない者に、生命力が宿るはずがない!!王向齋老師の「この一動は何の為にあるのか?」という問いは「今この刹那を十全に生きているのか?」という問いに置き換えられるのではないか、ふと思った。人は間違いなくいつか死ぬ。だからといって死を目的化して生きているわけではない(悲しいことに、そんな人もいるかも知れないが…)。死の、まさにその瞬間まで、与えられた生命力を最大限に表現すること、それこそが「今」という刹那を生きるということなのではないだろうか?韓氏意拳とは、なんと、厳しく、そして深く根源的なものなのだろう。

9月18日(月)
「『法華経』を読む」から

 「虚空」について、仏教以前に面白い考え方を示しているのは、『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』である。

 実に、かの人の外にある虚空は、このブラフマン(梵)と呼ばれるものである。また、実に、かの人の内にある虚空は、すなわち、人の外にある虚空である。また、実に、かの心臓の内にある虚空は、すなわち、人の内にある虚空である。この宇宙的な虚空のひろがっているだけそれだけ、この心臓の内にある虚空もひろがっている。

古代のインド人は、人間の心臓(フリダヤ)の中に虚空があると考えた。心臓の中というと小さな小さな虚空だと思うかも知れないが、どっこいこの小さな虚空、つまり「アートマン」(我)は、人間の外にある虚空と同じだけのひろがりをもっていると考えたのである。
 その人間の外にある虚空こそは、「ブラフマン」(梵)である。マクロ的(巨視的)なブラフマンと、ミクロ(微視的)なアートマンとは同質と考え、この二つは一つという一元論的立場を「梵我一如」と呼ぶのである。

と、紀野さんは取り上げている。仏教以前の古代インドの人も言葉は違えど、一元論的体認をシンプルな言葉としてもっていたことに驚く。語彙も今より少なく、哲学的思索の方法も発達していないであろう古代においての方が、本質(原理・原則)に対する体認の度合いが現代よりはるかに深いのは、身体という自然から切り離された智と言葉に絡め取られ身動きできずにいる現代人に比べ当然なのだろうか・・・。仏学などの言葉から感じることは、体認が深ければ深いほど言葉はシンプルとなり、言葉がシンプルであればあるほど、掬するものが多いのではないか(例え全てを掬いきれなくても)ということである。 「天網恢々、粗にして失わず」  シンプルな言葉とは天網のように広く、目は粗いが本質をより失わないものでは無いのだろうか?取りこぼさないようにと、言葉に言葉を積み重ね、積み重ねるほど網の目は細かくなるが、網自体は恢々(広く大きくゆったりとしたさま)でなくなり、掬い残すものが多くなる。言葉の過剰さは、本質からの乖離をますます促すだけなのだろう。自戒せねば・・・と言いながら長文、駄文を書き続ける自分って…(>_<)。

9月17日(日)
昨日から体調が悪かったのだが、今日は38度弱の発熱。一日寝て過ごす。現在汗をかきはじめたので、明日には復調の予定(^_^;)。

9月16日(土)
「『法華経』をよむ」から

 あの時窮子は叫んだ。「今此の宝蔵、自然にして至りぬ」と。あれが実にいい。自然にそうなるのが一番いいと法華経は言っている。「提婆達多品」には、修行主義・苦行主義の智積菩薩が、「八歳の竜女がたちまちさとったなどということは信じられない」と、馬鹿振りをさらけ出しているが、時至れば、何の修行をせずとも、すとんと行くのだ。長い修行をし、それを自慢に思う人間には、びっしりと垢が着いている。美しい魂の顕れようがない程に垢が着いたのではおしまいだ。
 修行もいい、努力もいいが、それよりもっと大事なものがある。自然にそうなるのが一番なのだ。

紀野さんも結構きつい方らしく(笑)、智積菩薩を馬鹿呼ばわりしているが、まあそれは置いておくとして(^_^;)、修行、苦行ではなく、すとんと自然に行くのが一番だと仰っているのは大変共感できる。修行、苦行が悪いというわけではない。体認するために必要な道程は必ずあるだろう。しかし修行を行うことにより、自分の心の中にそれに対するしがみつき(これだけの量したのだからとかこれだけの期間がまんしたのだからなどという)が生まれたのでは、それまでの修行の意味が無くなってしまうということではないのだろうか?甲野先生が仰っているように、他人にはもの凄い努力、苦行に見えても案外本人は「それが必要だからしている」と陰にこもることなく、しれっと言ってのける方に凄い方が多いと言うのもうなずける。こういった方には、難行、苦行どころか、実りの多い時間でしかないのだろう。だからこそ自然に至ることが出来るのだろう。本来「至る」ための一つの道程でしかない修行が、それ自体目的化してしまい難行、苦行になってしまっていないか、またそこに心がしがみついていないかを常に自戒する必要がある。

9月15日(金)「『法華経』を読む」から

紀野さんは禅の公案の『碧巌録』の第四十則「南泉一株花」から、陸亘大夫が、南泉和尚に師事し、肇法師の『肇論』を読んだ折、その中の

天地と我と同根

万物と我と一体

という有名な句のことを南泉に「也、甚だ奇怪なり(常識では考えられない、不思議なことをいう)」と尋ねた。
南泉は、陸亘に庭先の一本の花(一株花)を指さし

「時の人、此の一株の花を見ること、夢の如くに相似たり」

世間の人はこの花を見ても、夢を見ているぐあいだろうよと、言ったそうである。
ここから紀野さんは

 世間の人は花を見ても、実はちゃんと見てはいないのだ。それはどうしてか、万物と我と一体、というところで花を見ないからだ、というのである。

 人が花を見る。しかし、花は人を見ない。それでは人は花を見たことにならない。
 人が花を見る。そのとき、花もまた人を見る。このとき、はじめて、人は花を見たといえる。

 しかし、そんなことがどうしてできるか。人と花とが、まるで違う存在だとしたら、そんなことは起きない。しかし、人と花とが一体だとしたら、それは可能になる。
 人と花とが一体だと真に感じられる者が花を見たら、花もまた人を見る。そのとき、人は、真に花を見ているのである。

と述べられている。
私にはこの花と一体になるということが、絵に描いた餅のような想像上の一体という観念の世界の話ではなく(主と客に分離した主観的見地)、真に色即是空、空則是色もしくは一則万、万即一、一者、無、虚、道を得心(それを覚りと呼ぼうが主客一体と呼ぼうが、一元論の体認と呼ぼうが構わないが)した上でなら、花と一体になるということが起こりうる、いやむしろそうあって当然という主体的在り様のことなのだろうとひとり納得した。

更に紀野さんは、富山の写真家源隆史氏を取り上げ、

 源さんは、神通川のごく限られた流域の自然を撮っている。ファインダーで草や花をのぞいていると、花や草からのぞかれているような気がすると源さんはいう。彼は、草や花に写真を撮らされているのである。
 彼にとって、自然は別箇の天地ではない。草も花も彼と一体なのである。彼がそれを自覚していると、いないにかかわらず、そうでなくては、あんな写真撮れない。
 とにかく、源さんの写真は、ふしぎな自然との一体感をかもし出す。本人がそんな写真を撮ろうとして撮るのではないから、その一体感はきわめて自然である。
 人間は自然にふるまおうとすると、きっと不自然になる。自然にふるまおうとする者は必ず、その相手と自分との違いに気がついているのだから、決して一体ではあり得ない。一体でないものは、決して自然にはならない。

もっとも本質に近いことをサラッと書いているので思わず読み飛ばしそうになるが、「一体でないものは、決して自然にはならない」という言葉のなんと深く、重いことか。以前に道元の「さとりよりさきにちからとせず、はるかにこえてきたれるゆゑに、さとりとは、ひとすぢに、さとりのちからにのみたすけらる」というフレーズが頭の中でリフレインする。自然とは自然以前に思ったことなどを力とするのでなく、(人の智を)はるかに超えてやってくるもので、自然は、唯一筋に自然の力にのみ助けられてやって来るものなのだろう。

9月14日(木)
『「法華経」を読む』から

 初め三乗を説いて衆生を引導し、然して後にただ大乗をもってこれを度脱す。何をもっての故に、如来は無量の智慧・力・無所畏・諸法の蔵あって、よく一切衆生に大乗の法を与う。但、尽くしてよく受けず。舎利弗、この因縁をもってまさに知るべし、諸仏方便力の故に、一仏乗において分別して三と説きたもう。(平楽寺版1154貢)

 諸仏の真に説きたいのは「一乗」であり、「一仏乗」である。現代風にいえば、「一元論」である。師と弟子、父と子、自然と人間、仏と人間、神と人間、善と悪、理性と本能、男と女というような二元論ではなくて、師は師であると同時に弟子であり、父は子であると同時に子は父であり、男は男であると同時に女であり、女は女であると同時に男であるというような一元論の考え方はすばらしい。

と紀野さんはまとめている。素晴らしいかどうかは私にはどちらでも良いが、確かにここでいう「一元論」こそが、無であり、空であり、虚であり、一者のことであると思える。天地人(時間、空間、関係性)においてすべては変化し、変化することにより同時に存在してもいるのではないか?「今」という刹那は変化そのものなのだろう。
昨日の練習においてより認識が深まったことは、果は既にある。そして因はその果と同時にしか存在しない。果と因は同時であり、果は因であり、因は果であるのだ。それこそが自然の因果律(自然法則)であり、果は人が見え、感じることの出来る事象(原理・原則)として存在している。その既に存在している果を作ろうと、コントロールしようと、予測しようとする傲慢は、たちどころに自然を、舒展を破壊する。何時でもこの落とし穴は暗い顎を開いて待ちかまえている。恐るべし、恐るべし…。

9月13日(水)
今日は光岡先生宅で練習。先月の渡中以来、いろいろ自分の中で変化があったことなども質問しながら、その変化を見てもらったり、引っかかっている所などもチェックしてもらいながら充実した時間を過ごせた。また、頭で整理がついていないので、追い追い書いていこうと思うが、原理原則そして自然法則についての考察を聞かせていただき、思わずその鋭さ、深さに唸ってしまった。時間的には数時間(も無いかも知れない…)だが、感覚的には自分が変わってしまうほどの時間が経っているように感じる。自分の中の体認がより変化したのだろう。前の自分とは違う自分がいるのを感じる(大げさな…(^_^;))。本当に韓氏意拳は面白い、ご縁があったこと、またご縁を作って、また導いていただいている光岡先生には感謝してもしきれない。

9月12日(火)
10月21日の内田先生との朝カルでの対談の必要書類を返送するのを忘れてた。あぶないあぶない。急いで書いてポストに投函。それにしても10月〜12月期の内田先生の大阪朝日カルチャーの講座に、月替わりのお話相手としてご指名いただいたのであるが、私なんかをご指名いただいて、ありがたいやら緊張するやらなのだが、いったい何を話したらいいのだろう…?講座のタイトルは『武術的立場』というもので、私は韓氏意拳についてのご紹介を任されている(ちなみに11月はけいぞうさん、12月は神戸製鋼ラグビー部員の平尾 剛さん)。でも人前に立つのがアガリ症で大の苦手の私としては、今からプレッシャー(名越さんと内田先生との対談を見に行ってその盛況ぶりに圧倒されちゃった…行くんじゃなかった(T_T))。既に、パンフレットも出来上がり、キャンセルできない状況だし(^_^;)、まあ自分自身をそのまま表現するしかないので、多少は開き直っているのだが、それでもやっぱりプレッシャー。ああ、これを書いているとまたいらぬプレッシャーが…、做自己、做自己を呪文のように唱えている自分って・・・(^_^;)。

9月11日(月)
『「法華経」を読む」から

 自然界にはさまざまな不思議があり、その自然界の中に入りこんでいる人間が、最も不思議な能力を持ち、自然界の不思議を眺めて楽しんでいることほど不思議なことはない。

日々の稽古を、ルーティン化または辛いものとするか、日々体認、発見の連続として楽しんで行うか・・・選択するのは自分自身である。天文学者が、また航海士が航海術で持つ一望俯瞰的な神の視点に立とうとする(不遜な意味ではなく)想像力こそが、実相は空であり、空は実相であることを体認し、今を存する自分の縁の不思議を眺め楽しむことの出来る立ち位置なのかもしれない。

9月10日(日)
道元の『正法眼蔵』の「唯仏与仏」の巻で

 仏法は人のしるべきにあらず。このゆゑに、むかしより凡夫として仏法をさとるなし、二乗として仏法をきはむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑに、唯仏与仏、乃能究尽といふ。

 それをきはめさとるとき、われながらも、かねてより、さとりとはかくこそあらめと、おもはるることはなきなり。たとひおぼゆれども、そのおぼゆるにたがわぬさとりにてなきなり。さとりもおぼえしがごとくにてもなし。

と言っている。特に後半の部分を『「法華経」を読む』で紀野さんは、

それを究めさとった時に気がつくことだが、自分なりに、前もって、さとりとはこんなものだろうなと予測したりすることはできないのである。たとい予測したとしても、予想した通りのさとりではない。決して、思ったようなものではないのである。

と訳し、ポアンカレーを引き合いに出し、

科学上の発見は、理性的努力をしなければ得られないが、そうだからといって、理性の予測したようにはならない、たいがい、理性の予測したところにはない

と言っているのとそっくりで、どうして道元はそんなことを知っていたのかと驚いている。そして

そういうわけだから、さとりの前に予測することは、さとりにとって何の役にも立たない。さとり以前にあれこれと考えたことは、さとりにとって用のないものである。あれこれ考えたその内容が悪いというのではない。あれこれ考えたことも、そのまますべてさとりなのだが、その折は、自分がさとりという別のものになろうとしたので、だめになったのである。頭で分別し、判断しようとしたので、さとりとは別ものになってしまったのである。

とまとめている。ここの「さとり」の部分を「運動」に置き換えるとHSYQの方には何を言わんとしているかよく分かると思う(少なくとも私にはよく分かった←独りよがりかも…)。そして、「自然」と置き換えるとよりこの文が本質的なものとして顕れてくる。
果は既に在る。頭で因を考えその結果を予測したとしても、果にはまったく関わりのないことなのだ。
果は既に在る…だからこそ、そこに囚われず、因を修むることが重要なのではないだろうか?
最後に道元の言葉

 さとりよりさきにちからとせず、はるかにこえてきたれるゆゑに、さとりとは、ひとすぢに、さとりのちからにのみたすけらる

 さとりというものは、さとり以前に思ったことなどを力とするのでなく、はるかに越えてやって来るものである。さとりは、唯一筋にさとりの力にのみ助けられてやって来るのである

と紀野さんは名訳をされている。ここの「さとり」を「自然」に置き換えると、自然の本質の一端が見えてくると思うのは私だけだろうか?

9月9日(土)
枕が変わると早く起きてしまう。今日は起床は4時30分。まだあたりは暗い。熱いお風呂に入って、頭と身体を醒まさせてから、少し形体や站椿を行う。身体の調子も上がって来たので、近くのコンビニに散歩がてら珈琲を買いに出かける。戻って、ボーとしているウチに朝食の時間。ホテルのバイキングは好きなものを好きなだけ食べることが出来るので便利。特にマフェトンをして以来、あまり炭水化物系を食べなくなったので、ホテルでの朝食はセットで出てくるより、サラダや卵だけをひたすらお腹いっぱい食べることの出来るバイキングを選ぶようになった。がっつり(by脊椎さん)いただき、ふぅー満腹。そろそろ時間になったので、早めに電車で新木場に向かう。駅では独楽さん、脊椎さん、雲泥斎さんがドトールで朝食を食べながら待っていてくれた。BUMBへ向かう途中でれつさんや色んな方と合流。初めてBUMBに来たが、さすが東京、スケールが違う。でかいスポーツ施設だ。しかも使用者で満員らしい。ロビーに人が溢れかえっている。9時になり、人数もある程度揃ったのでKQKを開始。いつもの口八丁、手八丁で会員さんを煙に巻く(いいのか?)。楽しい時間は過ぎるのが早い。あっと言う間に受け持ち時間を終了。午後は風仙さんの会に遊びに行くので、キシタカ君やれつさんらと昼食後移動。このとき、風仙組のことが脊椎さんにばれ(^_^;)、「残った人は独楽、脊椎組だぁ!これから秘伝を授ける」と叫んでいた。どんな秘伝が授けられたのか、気になるところだが、後ろ髪を引かれる想いで八丁堀に移動。八丁堀では風仙さんが既に会を始めておられ、途中参加。でもどうやら私は口がうるさいので、向こうで喋ってかなり遅れて参加すると思っていたらしく、風仙さん「早いですね!」とビックリ。ワタシそんなにおしゃべりじゃないよ…(ウソです)。八丁堀の会では、風仙さんの指導を牢名主のように高座から眺めているうちに、おしゃべりの虫がムズムズ。
れつさんやキシタカ君相手に話していると、風仙さんが気を利かせて話を振ってくれた。これ幸いに、また口八丁を披露して、風仙さんのところのまじめな会員さんを煙に巻く。皆さん、あきれて口をあんぐり…。ゴモラペスターさんも朧さんもさぞかし、「なんだ、こいつ!?」と思ったことでしょう(苦笑)。それでも、好き勝手喋って動いて気がついたら既に16時前。おおっといかんいかん。赤坂のニューオータニのP・Hに行かねば。皆さんの都合も考えずに勝手に話を打ち切り(誰も聞いてないってか(^_^;))、八丁堀を後にする(風仙さんを始め、れつさん、ゴモラペスターさん、朧さん、その他皆さんありがとうございました、これに懲りずまた遊んでくださいね)。上手く接続の良い地下鉄に乗ることが出来、P・Hでの用事も17時過ぎには終わらせ、両手一杯のケーキを抱え羽田空港に向かう。少し時間があったので、空港ラウンジでシャワーを浴び、身も心もすっきり(嬉)。時間となり東京を後にする。今回は本当に多くの方のお世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。うるさかったでしょうが、これに懲りずまた遊んでやってくださいね。

9月8日(金)
朝一の飛行機で東京に向かう。ギフトショーは最終日と言うこともあって、割と人が少なめ。御陰で、スムースに見て回ることが出来た。しかし、やはり秋口のギフトショーはウチ向けのものが少なく、面白くない。名刺を交換したところも一カ所だけだったし、来年の秋(春は行くよ!)はやっぱり考えるなぁ。終わって帰りに天王洲アイルのホテルにチェックインして(今回は何処に動くのも便利なところで良かった)、池袋のコミュニティーカレッジの甲野先生の講座に向かう。今回甲野先生が移動のため、講座後ゆっくりお話しできないと言うことで、講座が始まる前に少しお話と技を体験させていただいたのだ。うーん、何気ない所作がますます、何気なくなっていっている(言っていてワケ分からない(^_^;))。つづいて、打ち合わせに同席させていただき、そのまま講座に。講座は皆さん一般の方が多く、最初は大人しめだったが、甲野先生の技を何人かが体験すると、とたんにヒートアップ!色々質問や体験される方も出てきて盛況。途中風仙さんやSアさん(松聲館のHPの管理人の方、いつもお世話になっています)も合流。あっと言う間の2時間が終了。 講座後甲野先生、陽君としばしのお別れ(10月9日に香川で講習会があるのでまたお会いできるの♪)。風仙さんやI井さん、Sアさん方松聲館関係の方と喫茶店に河岸を変え、しばし歓談。明日の朝が早いので、10時30分にはホテルに帰る。バタバタ忙しかったけど、とても楽しい一日だった。明日は今日よりもっと時間が詰まった一日になりそう。

9月7日(木)
明日東京ギフトショーに出張のため、今日は午前中にお茶の稽古に…。久しぶりの真の行台子は、すっかり忘れていて(^_^;)、いちいち指導を受けながらお点前をしていると、店からお客様が来店との電話が入る。欲しい着物があるとのことで先日問屋で入れてきたのだ。あわてて、店に帰るも一足違い(>_<)。お会いできなかった。それから、ネットの注文の処理を行っていると、電話で問合せや注文などが入る。また、来客も多く、本当どうしたの!?って言うくらい。毎日これくらいだと良いけど、忙しいときは重なるね。とりあえず、明日の出張の準備と明後日のKQKの準備、特に靴だけは忘れないようにしないとね(^_^)b。

9月6日(水)
「無量義経」(平楽寺版四四貢)に

経の威力をもってゆえに、その人の信心を発し、?然として回することを得ん

と言うのがある。?然(くつねん)とは忽然(こつねん)と同じでたちまちおこることで、何の前触れもなく、あっという間にそうなってしまうことだそうである。確認とは、頭(知)で時間軸に沿って論理立って理解していくことだろう。一方体認はこの?然得回そのものではないだろうか?突然前触れもなく脈絡もなく分かってしまう。
まさに、直感され、予感される…そういったことをこの「?然得回(くつねんとくえ)」は表現しているように思う。

9月5日(火)
ハイデッガーは、その著書『存在と時間』第二篇第八十二節で「今」について以下のように述べている

「時間は自己外存在の否定的統一であり、またもっぱら抽象的なもの、観念的なものである。時間は、存在することで存在せず、存在しないことで存在するような存在、すなわち直感された生成である。・・・・・時間は、このような解釈にとっては、《直感された生成》として露わになる。この《直感された生成》は、ヘーゲルに従えば、存在から無への、乃至は無から存在への移行を意味している。生成とは、発生であり消滅である。存在は《移行》し、あるいは非存在が《移行》する。このことは、時間について何を言っているのであろうか。時間の存在とは、今である。しかし、おのおのの今は〈今や〉もはやすでに《無く》、あるいは未だ《無い》ので、《今》はまた、非存在とも捉えられる。時間は《直感された》生成である、とは、思考される移行ではなく、今の連続という形で立ち現れる移行を意味している」

私の頭では論理的に理解することは難しいが、それこそ、直感的には言いたいことが分かるような気がする。「空即是色、色即是空」であり、一者(ト・ヘン)を、一即万、万即一を、時間というものを軸として語っているように感じる。存在しないからこそ存在し、存在しないことで存在するような存在というのは、人の全体性とその一部に対する体認と認識の関係、たとえば、鏡面王の盲人の象の話と通じるものがあるような気がしてならない。知の発達した人間は、傲慢にも知で理解できるはずのない全体性(もしくは空、無、道、虚、一者、今という刹那)の一部(または幻想)をもって理解したと思っている(もしくは信じ込もうとしているが)。しかし本当は、全体性の中の一部しか理解していないかも知れない、また理解したものは実は幻想に過ぎないのではないかという節度、畏れ、一歩引いた立ち位置etc.こそが、それらを直感し、予感する唯一のアプローチかも知れない。

9月4日(月)
朝から京都出張。以前から仕入れたかった「よきもの倶楽部」の綿のプレタ着物を仕入れる(入荷したらすぐにHPに上げますからね〜、待っててね〜)。会社が修学院というおよそ問屋街からはハズレた位置にあるので、行き難いのが難点だが、ローカルでのんびりした叡山鉄道にガタゴト揺られて行くのも風流で良かった。時間を思ったより使ってしまったので慌てて室町に向かう。お客様の注文など3件ほど問屋をまわる。なかなか良い買い物も出来(男物のプレタ、特価で出しますよ〜(^O^)/)、気分良く帰る。店に帰ると紀野一義さんの『「法華経」を読む』が届いている。『「般若心経」を読む』がとても良かったので、今から楽しみ。前書きで、法華経が分かると道元が、「正法眼蔵」が分かるとある。こりゃ今苦戦している「正法眼蔵」をきちんと読むためにも良いかもしれない。ラッキー(^_^)v。

9月3日(日)
『「般若心経」を読む』から…般若心経の咒である

「掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶」

のサンスクリット読みは

「ガテー ガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」

意味は

「往ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ さとりよ 幸あれ」

だそうである。紀野さんによると、これは智慧の完成者、覚れる人への賛歌であり、そしてまた、それを目指そうとする人への賛歌でもあるそうだ。また、盛岡の詩人村上昭夫氏の『動物哀歌』の末尾の詩を取り上げ

 航海を祈る

それだけ言えば分かってくる
船について知っているひとつの言葉
安全なる航海を祈る

その言葉で分かってくる
その船が何処から来たのか分からなくても
何処へ行くのか分かってくる

寄辺のない不安な大洋の中に
誰もが去り果てた暗いくらがりの中に
船と船とが交わしあうひとつの言葉
安全なる航海を祈る
それを咒文のように唱えていると

するとあなたが分かってくる
あなたが何処から来たのか分からなくても
あなたを朝明けのくれないの極みのように愛している
ひとりの人が分かってくる

あるいは荒れた茨の茂みの中の
一羽のつぐみが分かってくる
削られたこげ茶色の山肌の
巨熊のかなしみが分かってくる

白い一抹の航跡を残して
船と船とが消えてゆく時
遠くひとすじに知らせ合う
たったひとつの言葉
安全なる航海を祈る

の「航海を祈る」ことと「スヴァーハー(幸あれ)」とが同じ使われ方であり、互いが祈りつつ祈られる存在で、それは観られつつ観、観つつ観られている観自在の状態のことであると仰っている。観自在とは主も客も区別なく一体である主格一体の境地、作用を及ぼす側と作用を及ぼされる側がどちらにも同時に存在してる人の在り様のことだったと改めて心から納得したことが、自分としては非常に嬉しかった。HSYQで求める主体的ということも、客観と主観という二項の対立した状態から脱却し、主客同一の、主も客もなく、また主でもあり、同時に客でもある、ただこの須臾の刹那に存するのみの自分としての必然の有り様を求めているのだろう。

9月2日(土)
『「般若心経」を読む』から、紀野さんは、お地蔵さまの画を画きなぐり、般若心経を書きなぐる天衣無縫の芸術家佐藤勝彦氏を紹介している。佐藤さんの言葉で最も印象的だったのが、

「物が欲しい時は欲しがってもいい、しかし、また、いつか、不生不滅へ帰って来いよ。色即是空に帰って来いよ」

との言葉。HSYQの練習の折、光岡先生が、「持たれた手を意識することは、動物であれば自然なことです。ただ、そこから如何に自分に戻すかが重要です。それが出来るのは人間だけです。」と仰ったことを思い出した。有っても無いと思いこむのではなく、有ることを認めた上で、そこにしがみつかず、如何にその時、その場、その関係性において主体的に、また必然的に在るかと言うことにこそ人としての真があり、原理原則に近づくための重要な何かが在るのかも知れない。動物は色即是空なのだろうか?空即是色なのだろうか?色即是空、空即是色を体認できるものは、もしかしたら知を持ってしまった人だけかも知れない。そう言った意味で知と言う能力を十全に表現しながらも、尚かつ主体的に(時・空・関係性において必然を持って)在ることが出来る可能性を持つのは人間だけかも知れない。
それを思うと、HSYQという古今にも例のない体系は、人間以外では作り得ない、またそれを表現し得ないものなのかも知れない。

9月1日(金)
『「般若心経」を読む』に良寛の「我生何処来」が紹介されている。現代語訳もしていただいているが、原文には現代語にない深い味わいがあるように思うのでそのまま…

我生何処来 我が生、いずこより来る
法而何処之 去って、いずこにかゆく
独坐蓬窓下 独坐す、蓬窓の下
兀々静尋思 兀々、静かに尋思す
尋思不知始 尋思すれども始めを知らず
焉能知其終 いずくんぞよくその終りを知らんや
現在亦傷然 現在またしかり
展転総是空 展転、総にこれ空
空中且有我 空中しばらく我あり
况有是与非 いわんや是と非とあらんや
不知容些子 些子を容るるを知らず
随縁且従容 縁に随ってしばらく従容

ここにある、 人生をコントロールしようとすることに対する何とも言えない厚みのある諦念。そしてそれを従容するだけの度量。とても、心の奥に響いてくる。この本の作者の紀野一義さんが仰る重層複眼の、重層立体の人生観そのものだろう。そこにこそ、より真に対する、また、色即是空、空即是色を体認することの出来る立ち位置があるのかも知れない。


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