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お気楽旦那の徒然なるままに |
7月31日(月)
昨日今日と梶川先生のブログで取り上げられている部分と全体性の話を読んだ。 「部分と全体 水素・ヘリウムの存在比は宇宙のどこでも一定である。銀河の構造を作り出す以前から一様であったことを示す。ならば、水素・ヘリウムは部分なのか。全体なのか。水素から他の元素の存在を予測することはできないが、最初の元素ができる時には、残りの元素を生成するシステムが存在しなければならなかった。全体を対象化するには、全体を規定する全体でないものがな くてはならない。ならば、システムは全体なのか、部分なのか。」
ここでいうシステムということこそが、全てに通底している原理原則のことなのだろう。部分から全体を知で把握することは出来ないが、部分に通底している原理原則(真)から全体を直感(予感)する事が出来るのだろう。
そして 「シナリオ宇宙 シナリオにはそれを構成するプロットがある。プロットには 全体でない前後の情報がある。全体を対象化するには全体を示す全体ではない過程がなくてはならない。過程は部分でもない。過程は存在なのである。 Y.K」
過程(プロセス)は切り取られたものではなく、全体を構成する『運動』そのものかも知れない。故に過程(プロセス)は部分ではなく『存在』なのかも知れない
7月30日(日)
朝から学校茶道のお手伝い(と言ってもお茶を運ぶだけ)。 その後家族で丸亀沖の本島に渡り(何でも日本の海水浴場百選に特選で選ばれたとか)泊海水浴場で海水浴。2,3m進んだだけで足が立たなくなるので親は泳ぐことを断念。子供がお腹が空いたというので、海の家でカレーライスを頼むが、一人前の人でご飯が切れる。仕方ないのでカップ焼きそばを作って食べる。結局14時過ぎの便で丸亀に帰り、河岸を変えて、今度は親も泳げる(っていうか引き潮のときは泳ぐ深さに到達するまでに5分以上かかる程の遠浅)仁尾の父母ヶ浜に向かう。こっちは砂は細かくて良いのだが、風のせいか海に大量のゴミが帯状に(家庭のゴミよりも海草や木くずなど)浮いており、あまり泳ぐ雰囲気ではなかった。しかし子どもたちはそんなことはお構いなく、ずっと泳いだり、後半は夏の日にじりじり焼かれながら、砂浜で小魚取りに2時間以上も夢中になっていた(元気だね(^_^)b)。子どもたちには一日海で遊んで(子供がね)、十分満足した一日だったらしい。ただ、家に帰ってから真っ赤になった日焼けにもだえ苦しんでいたのは言うまでもない(^_^;)。
7月29日(金)
今日は朝からネットの注文の処理、メーカーに発注。その後中国語の教室、終わって直ぐにまたネットの処理、その後急いでKJK(ミノッチさんとペングリップさん)。私自身の課題も含めてじっくり、みっちり練習。帰ってまたまた急ぎのネットの処理、そして子供を塾に送り、またネットの処理。ようやく今ほっと一息((;・・ヘ)。まあ、こんな忙しい一日もタマにはないとね(^o^)。
7月28日(木)
今日は光岡先生宅で個人練習…のはずが、ある組織のドン(笑)や脊椎さん、更に東京よりI藤さんと4人での賑やかな練習となる。
しかし毎回、自分の頭の悪さには辟易する。今日読んでいた岡潔さんの本の中の「不可知、無所得」こそ今の自分には必要だ。
『「知ろうとしてはいけない、得ようとしてはいけない」…知ろうとすれば分別智になり、得ようとすれば世間智になる。そういった物を大切にすると、恐るべき無明はその中にいくらでもはびこる。』
身につまされる言葉だ。より自由に、より伸びやかに、より自然になるために、獅噛付きを手放すために心しておこう。
7月27日(水)
今日はお昼から子供を連れて、かねてより見に行きたいと言っていた「パイレーツ オブ カリビアン デッドマンズチェスト」を見に行った。3時間弱もある映画だが、面白いのであっという間に時間が経った。子供も面白かったようだが、一言「次が気になって仕方ない」…確かに!完全な2話完結ストーリーのようで、今回はStar
Wars帝国の逆襲のようなエンディング。まあ3年も待たなくて良いけど(一緒に撮って来年公開らしいし)でもやっぱり気になる。
まんまと、映画会社の思うつぼにハマる親子4人であった(^_^;)。
7月26日(火)
今日は日頃HPの管理でご迷惑をかけ、なおかつ大変お世話になっているブリーデンさんご夫妻を永楽亭にお招きして、一日遅れの土用のウナギのコース料理をご一緒させていただいた。さすがに永楽亭さん、小鉢物の彩りにうっとり、コチの新鮮な洗いに舌鼓をうち、椀物の白味噌に浮かぶ丸ごと無花果にビックリそしてその美味しさに二度ビックリ、そしてメインの鰻重。関西では珍しい関東の背開きで蒸しの入った舌の上でとろけるようなウナギに天にも舞い上がる気持ちになる。
最後はご主人の野原さんの暴挙?で導入した自慢のジェラート・マッシーンで作ったジェラートの登場。初めて作った甘酒のジェラートだそうだ!!少し白ワインでアクセントを付けているのがまたニクイやら美味しいやら。中に何か緑の小さな物があるのはなんとオクラ!!食べ終わった後にほんの少し口の中にオクラの香りが広がるのがまた何とも言えないハーモニーとなっている。うーん、食べることもまた身体を使った重要な体認であると体認した!!!
とにかく、食べてしゃべって3時間以上お邪魔しちゃいました。すみません、迷惑な客で。ブリーデンさんもお忙しいのに長々お引き留めしてすみませんでした。これからもよろしくお願いしますね。
7月25日(月)
昨日の夜は光岡先生による限定8名の中身の濃〜い少人数KSK。 まるで自分の存在の真を問われる内容にも食いついてくる方も出てきて、皆さんの体認の深さもますます深くなっている様子。先知後行、先行後知はどちらも妄想である時間(過去や未来)にしがみついている点では同じこと。今(刹那)を生きると言うことはそれらの獅噛付き(←へーこんな字だったんだ(@_@))を解放し、知行合一で生きることに他ならない。
良い意味での開き直りこそ、束縛された自分(←自分を自分で)、標準化された物に獅噛付いた心を解放することになる。そうなって初めて人は真の自由を身体的にも心にも得るのだろう。そうならなければ一形一意になれるはずもない・・・。
時間にしてみたら2時間ちょっとだけど、何時間も経った感じがするほど頭も身体もオーバーヒート!!だけど何故かとっても気持ちがよい(^_^)b。
光岡先生有り難うございました。参加された皆さんもお疲れ様でした。
7月24日(日)
HSYQの愛媛でのKQK。妻が子供と同行し、KQKの間海水浴でも行く予定を立てていたが、生憎に雨でボーリングに変更、とても面白いボーリング場だったようで、楽しめたみたい。私の方は7人の参加者と少なめだったので、しっかり、みっちり練習。皆さんもう既に何度も参加された方ばかりで、形はもう既に覚えているので、今後のテーマはいかに自然に伸びやかに主体的な動きをしていくかと言うことにある(いや、人ごとじゃなくて(^_^;))。それぞれがより体認を深めていくしかない。皆さん共に進んでいきましょうね。
KQK後は子どもたちのリクエストで道沿いにあった焼き肉屋さんへ、ここがヒットでお肉が美味しい。あっと言う間に平らげて、帰りに温泉に寄って帰宅。子どもたちにも充実した一日になったかな?
7月23日(土)
今日も家の前の柏の木にカブトムシが5匹以上来ているらしい。家の中でも聞こえるくらいブーンという音が狂喜乱舞している。かなり大きなのもいるみたいで2階の子供の部屋の窓の網戸にも止まったり飛んでいったりを繰り返して子どもたちがそのたびに騒いでいる。今年はクワガタといいカミキリムシといい甲虫の当たり年かな?でもカブトムシも来だしたと言うことはそろそろ梅雨明けなんだろうな(明日は雨みたいだけど…)
7月22日(金)
今日大阪で行われたWBAスーパーフライ級タイトルマッチで名城信男選手(六島)が、王者のマーティン・カスティーリョ選手(メキシコ)に10回、TKO勝ちし、世界王座に就いたそうだ。デビュー8戦目での世界奪取は、辰吉丈一郎(1991年、バンタム級)に並ぶ、最速タイ記録。すごい、やっぱりとっても上手くて強かったんだ。
実はこの名城選手には他の選手とは違う思い入れがある。それは、あの神業的ディフェンスの本田秀伸選手を内田先生やHSYQの繋がりで知り合って、世界タイトル戦後の復帰戦に大阪まで応援しに行ったのだが、その時の相手がこの名城選手だったのだ。試合は残念ながら本田選手の判定負けとなってしまったが、デビューしたての名城選手なのにとても上手いという印象があったのだ。やっぱりこの頃から普通じゃない選手だったんだね。あの辰吉選手に並ぶ最速タイ記録というのも凄い!まだまだ若いし、どんどん防衛していくんだろうな。頑張ってくださいね(^O^)/。また、本田選手も8月にタイであのウィラポン選手と復帰戦をするそうなので応援するぞー(もちろん家でね(^_^)b)。
7月21日(木)
脊椎さんにマフェトン理論セミナーを開いていただいたのが、6月25日だからほぼ一月が経とうとしている。ウチの妻が完全な2週間チェックをした。一度気がつかずに炭水化物を一週間目でとったのでリセットし結局先週の日曜日に終わった。私も付き合いでプチ2週間チェック(牛乳や、ヨーグルト、炭水化物も少しはとっていたので…)してみた。結果は妻が3週間で体重が3s、体脂肪が3%減、私が体重が5s、体脂肪が4%減と短期間でビックリするくらい落ちた。ただし、マフェトンの2週間チェックはダイエットが目的ではなく、糖質を2週間絶ってリセットし、その人が本来必要としている炭水化物(糖質)を体認することが目的で、理想とされる炭水化物:タンパク質:脂質の比率4:3:3のより理想的な摂取のために行うのである。マフェトン理論に基づいた食事をするとよく分かるのだが、何よりも身体の調子がとても良くなる。結果身体の運動に対するパフォーマンスも上がるし、免疫力も上がるようだ。独りよがりの食事をしていたときは、どんなにしても治らなかった肌荒れなども、今はとてもすっきりウソのように調子がよい。おそらく大好きな炭水化物(糖質)をとることで分泌されるインシュリンが炎症作用を促進していたのが、マフェトン理論に基づいて炭水化物の摂取量が減り、逆に良質の油(オリーブオイルなど)をしっかりとるようになったので、抗炎症作用がきちんと働いているようだ。妻にしても、エアロのレッスンなどで夜遅くなり、翌日起きられなかったのが、疲れのとれ方が違うらしくどんなに遅くても朝5時30分には起きられる様になった。また、下手なストレッチなどしなくても身体のパフォーマンスがビックリするくらい高くなったそうだ。思いこみによる食事の仕方が、どれほど身体からの信号を無視し続けてきたか…今は考えるだに恐ろしい。これはHSYQの練習で陥る知が身体を全てコントロールしようとする(出来るはずもないのに)罠と同じだ。いつでもどんな場合でも身体にきちんとレスペクトを持って、身体の声を聞き、解放して接していかないとこういった間違いを何時でも犯す危険は常に潜んでいる。自戒しなければ。
こうした体認を得る機会をきっかけを作ってくれた脊椎さんには感謝しても仕切れない。これからもよろしくお願いしますね。
7月20日(木)
今日はHSYQの用事も、他の所用もなく、1日中ひたすら店で仕事に専念。溜まったネットの注文の処理やら、来店されたお客様のお相手、次にアップする男物の夏着物(これがまたお洒落でCPも良くて良いんだね、期待しててね(^_^)b)の撮影、処理などでホントにあっという間に一日終了。たまには(たまにで良いのか?)こんな日も充実感があって、呉服屋さんみたいで良いな(えっ、違うの…(@_@)?)。
7月19日(水)
昨日甲野先生からお電話があった。本業の方の関係のことと、他にも近況など伺う。やはり殺人的なスケジュールで大変そう。その話の流れで嬉しいことに10月9日(月)の体育の日の祝日に久しぶり(8ヶ月ぶりくらいかな?)に香川で講習会を開いていただけることになった(/\)チャチャチャチャ
\(^o^)/ハッ!!。 まだまだ3ヶ月以上あるので、技も今よりもっと変わられ、進展されて(より見えにくく、分からなくなって(T_T))いることだろうと、とても今から楽しみだ。
それにしても10月のイベントの多いこと。1日のワークショップ、9日の甲野先生の講習会、15日のmariさんのお手伝い、16日のKSK、21日の朝カルでの対談がある。KQKもしないといけないしね。ガンバろっと。おお、忘れるところだった。一番しないといけないのは仕事…ね(^_^)b
7月18日(火)
今日は中国語の教室。鈴木先生のところに行ってみると既に人が?鈴木先生の奥様のお友達で中国人のコックさんで形意拳をされている方らしい。会話について行けなかったのが残念(T_T)。気を取り直して中国語会話のレッスン。いつも通り、時間の半分(といっても授業は1時間きっちり、余分に1時間いろいろお話を伺う)くらいは授業とは無関係の話(とっても中国の話など、面白いんだ、これが!)。話の流れで先生の奥様から菊花石の亀の飾りを頂く。嬉し〜、ありがとうございます。大切にしますね。
7月17日(月)
今日は午後から福山で術理研究会。甲野先生のマル得マガジンや岡田さんの最近のDVD等から稽古素材のヒントを頂き、皆で研究。皆さん面白がっていろいろあちこちで試したり、それぞれが楽しんでくれているみたい…良かった(^o^)。特に前回も親子で参加していただいたお子さん(小1)の方が、前回が楽しかったようで、また遊びに来てくれたのは私としてはとても嬉しかった。何より、その動きは一形一意で、ほとんど全ての動きが直ぐに出来るのだ!これにはまわりの大人たちもビックリ。寝ている人を起こす介護術も相手が大人でも軽々と起こしてしまう。そのあまりの感覚の軽さに体験した大人たちはみんな笑ってしまう(そう、あまりに理解できないくらい凄いと笑っちゃうんです)。それを見ている大人たちも、彼の自然さを目の当たりにした影響でどんどん出来ていく。ホント私なんか要らない凄い先生だ。運動は何をしても褒められた事がないとお母さんは仰るけど、かえってそれが自然な動きを阻害しなかった要因かも知れない。頭に頼らず、身体を解放し、信じた動きそのものは決して身体という構造の外に出ないことを学ばせていただいた。今日は教えに行ってたくさんの学びを得て帰って来れたとても貴重な一日だった。アリガトネ、また遊びに来てね〜(^o^)/。
7月16日(日)
一昨日の内田先生×名越さん対談の中でずっと考えていたことなんだけど、芸術にしろ、数学や幾何学、物理学などの学問にしろ、そこで素晴らしい作品や仮説または証明と言われる物は、全体性(これを自然と言おうと神と言おうと道と言おうと構わないが)の中で既に分節されストックフレーズ化されたもの(当然全体性の中のごく一部でしかない)を使って、全体性に対する新たな切り口を発見または啓示されてきた物なのではないだろうか?一度啓示され提示された物の多くは直ぐにストックフレーズに堕してしまうのだが、風雪に耐え抜いたものは、常に人に新たな啓示(体認)を与え続けている。そこには全体性を分節し、理解し尽くしたという傲慢さよりも、分節しきれないその半端な有り様もしくは遠慮がちな存在主張、永遠の問いかけなどを通して、叶わないまでも常に全体性を顕わにしようとしている運動状態があるのではないか?その生きた運動状態に人は強烈に引きつけられるのかもしれないと感じた(なんのこっちゃ?)。
7月15日(土)
昨日、内田先生×名越さんの対談を大阪まで聞きに行く(10月の内田先生との対談の雰囲気を見たかったのもあるのだけど…)。それにしても超人気講座のようで満員御礼。今から軽くプレッシャー(T_T)。でも、対談自体はとても面白く、また考えさせられるものだった(自分の考え方のベースが完全にHSYQになってしまっていると再確認してしまった(^_^;))。対談の後はプチ宴会に移動。そうそう対談の前にたっきぃさんと合流し、噂のたこ焼き屋さんを体認できた(とっても美味しいけど熱いの…(T_T))。そのたっきぃさんやみどりあたま(死語?)さんも一緒に参加。とにかく濃くて楽しい2時間があっと言う間に過ぎてしまう。そのままホテルに戻って爆睡。今日は内田先生の芦屋の稽古に参加させていただこうと思っていたのだが、午前中時間がありそうなので、噂に高い桜ノ宮のバール・ウーノに行ったが土曜日の開店が11:30ということで泣く泣く芦屋に向かう。
芦屋での稽古はより身体性が深い稽古となり、今の私のテーマとピッタリ一致してとても面白いものだった(みどりあたま(死語?)さんは途中でドロップアウト(^_^;))。夢のような2日間を過ごし、無事帰宅。帰ってくるとネットの注文などが立て込んで、明日もまたバタバタしそうな予感。
7月14日(金)
朝子供を学校に送り出してから、練習する。今日も最高気温が35℃らしく、屋外の日差しはひたすら眩しく、真っ白い光に全てが融けていくような錯覚を覚えるほど。光が音まで吸収してしまうかのように、練習の間とても静かだった。田舎なのであまり都会のような喧噪は無いのだが、それでもいつもは通勤や通学等の日常の音は聞こえてくる。それが今日はほとんど無音なのである。いや、セミの声やせわしなく行き交うカナブンの羽音、どこかの会社のラジオ体操(標準化の極みだね(^_^)b)の音も聞こえているのだが、どこか遠く、浮世離れして、感覚的にとても穏やかで静かなのだ。まるで夕方の凪いだ瀬戸内の海のような、全てが動いているはずなのに、その刹那で時が止まっているような感じ。田舎に住んでいるとこういった日が夏に何度かある。私の最も好きな夏という瞬間である。
7月13日(水)
昨日のHAYQの個人練習で、知の過剰な働きの恐さを(分かっていたはずだが)改めて再認識させられた。身体の運動という物は、知が方向性を与えるだけで、運動自身に関与しなければ、時間はよどみなくただ流れるのと同じように、一部の隙間もなく時間のようにただ行われていく。そこに「知」が過剰に関与(指令)をすると、隙間が出来(というか無理にでも隙間をこじ開けて)介入する。その時点で本来運動の持つ連続性(これが運動そのものだと思うけど)が失われる。止まった時は存在しないように、既に運動でなくなった運動は(うう、分かりづらい、何を言ってんだ俺は)その働きを失う。いつでも、そして常に知は介入を狙っている。まさに「恐るべし、恐るべし」である。この知の介入から逃れる手段は、主体をきちんと自分に持ってくる…つまり放開自己(自分を解放し)、相信自己(自分を信じ、赦し)、做自己(ただ行う)だけしかない。
7月12日(火)
先日来光岡先生が伝習録の薛尚謙所録の中で蔡希淵が王陽明に「聖人にも種類があって才能や力量が同じでないのに、同じくこれを聖人という理由がどこにあるのでしょうか?」と尋ねたことに返して「聖人であることは純金が色合いが完全で、銅や鉛の混入がないことと同じであるが、金の目方に軽重の差があるように、同じ聖人であっても、才能力量に大小の差があることも同じである。例えて尭や舜は一万鎰、文王・孔子は九千鎰、禹王・湯王・武王は七千鎰、伯夷・伊尹は四五千鎰に当たるようなものだ」と応える一説をよくお話になる。ここで、最も落とし穴になると思うのはその数字である。陽明はその聖人の数字の大きさを大きい方がよいと言っているのではなく、そういった違いがあることこそが、才能、力量の違い(典型行為)そのものだと伝えたかったのだと言う。何となく理解したつもりになっていたこのことが先日の講習会後光岡先生とお話ししていて、ふと老子の十一章に無用の用の話を思いだし、それを通して自分なりに心の底にしっかり落ち着いた。老師の十一章は「三十一幅一轂を共にす。その無にあたりて、車の用あり。埴を挺ねてもって器を為る。その無にあたりて、器の用あり。戸?を鑿ちてもって室を為る。その無に当たりて、室の用あり。故に有のもって利をなすは、無のもって用をなせばなり。」とうものだ。確かに空間の無い家はただの大きな塊だし、空間の無い椀もただの小さな塊でしかない。形状はなくてはならないものであるが、真の働きはその何も無い虚ろな空間にこそ在る。何も無い虚ろだからこそ働きが生まれるのだ。ただ在る時は何も無いが、いったん働きがあると、あることを体認(確認ではなく!)出来るものなのだろう。その何も無いものを把握しようとして、標準化、定量化をし、表された数字で仮にその空間を分節し把握したつもりになったところで、その働き自体を体認することは出来ない。椀は椀にふさわしい虚ろがあるからこそ、そしてそこに飯を盛って食べるという働きをして初めて椀としての、そしてその虚ろをの働きを体認することになる。家は家として適切に出入り口や空間のような虚ろがあり、そこに住んで初めて家という働きが存在する。定量化し数値化することで把握したつもりになっている虚ろ、そして数値という外形化できる物に執着した瞬間に、内部にある働きを見る事が出来なくなり、比べられる物だけが全てと勘違いしてしまうのではないか?そもそも働きには大きさなど関係なく、それがその求められる働きにどれだけ一致しているかと言うことが大切なだけであろう。例えばビール好きの人にとって夏の暑い日にビールを飲むときには大ジョッキの虚ろの働きががその人にとって適切であるが、ビールを余り飲めない人は小さなコップの虚ろの働きでも多すぎる。数値が多ければ働きがより表現されるという物ではないのだ。定量化された数値にしがみつくことは、頭が実体(と思っている標準化されただけの物)を把握しやすいだけで、本当は時間制、空間性、関係性に於いて求められる働き(必然)を逆に見えにくくするものである。椀は椀、家は家それぞれが数値の大小でも、ましてやそれに伴う善し悪しでなく、それぞれに必然的な虚ろがあって、そこに働きがあり初めて、虚ろの真の姿が体認されるのだ。HSYQで求めるものもその“虚ろ”のようなもので掴もうとしてもそこには実体は無いが、必然の働きがあって初めて体認することが出来るのではないだろうか。
7月11日(月)
よく初心者の方が「間違ったらいけないので、家では練習していないんです」とか「勝手に練習して、間違ったクセがついたら大変なので家ではしない方が良いですか?」と尋ねてくる。私はそう言う時は「関係ないです。したければどんどんしましょうよ(^_^)b」と言うことにしている。間違っているかどうかはしてみないと分からない話だし、そもそも最初から出来るのなら習う必要も無い。間違ったら師や先輩がその方向性をアドバイスしてくれるはず。そのために居るのだから…。間違ったという体認が出来れば、次回はそうしなければよいだけだし、天才でもない限り真実を一度で体認することはまず出来ないのだから。「多くの間違いの中から真実というものは出てくる」ものだから、間違いを恐れる必要は何処にもない。かえって上手くいけば、それにしがみついて居ついてしまい、何処にも動けなくなる事の方が怖い。先生の前で上手くやろうとか、失敗したらだめとか、主観がしがみついてるのは不安から作り出した標準化だ。何時でもその負の三位一体はウロボロスの蛇のように閉じた循環の中で一瞬で肥大化していく。本当に注意しないと行けないのはここだと思う。自戒を込めて常に自分の在り様を体認していかないとね(^_^)b
7月10日(日)
今日は光岡先生の香川でのKSK。一番心にヒットしたのは、明白的標準化と不明白的標準化のこと。明白的標準化は具体化による執着(しがみつき)によりおこる。不明白的標準化は、全体性の認識不能性による放任によりおこる。状態は違ってもどちらも標準化であることは変わりない。恐るべし、恐るべし。
7月9日(土)
今日はこれからお茶のお稽古。それから、帰ってネットの注文の処理をして、14時過ぎから教授会にお一人来られるので18時前まで
HSYQの練習。おっ!何時仕事するんだ(^_^;)?
7月8日(金)
ずっと根本法(演繹法)の練習法と具体法(帰納法)を分けて考えていた(今でもある程度この考え方に納得してはいるけど)。
具体法というのは、良い悪いという事ではなく、具体的な技や型を通して、そこに通底する原理原則を求めていくやり方なのだと認識していた。しかし最近は、具体法、演繹法の区別なく、いずれも(相手に、技に、出来不出来に、etc.…)しがみついている自分を解放し許すことに中心がないとどちらも役に立たないのではないか?と思うようになった。重要なことは方法論や仮借した方法そのものにではなく、そこに主体性があるかどうか?である、ということがようやく心に落ち着く所まで納得できた。少しづつ体認していくしかない、道は遙か遠いが、人は(望めば)死ぬまで成長することが出来るのだ。こんなに楽しいことはない!
7月6日(木)
午前中松に行く、午後一番に地元ケーブルテレビの取材と撮影。それからインターネットの注文の処理(処理能力ぎりぎり(^_^;))、夕方から3時間ほど教授会、その後夜に妻との買い物、そして現在に至る。うーんなんかバタバタで疲れた。もう眠いの…(-_ゞゴシゴシ。
7月5日(水)
今日は光岡先生と梶川先生のお二人のお話をお聞かせいただき、とても幸せな一日でした。ただ、生来の頭の悪さで家に帰っても今日のことが自分の中でまだ上手く消化しきれていない。なんか頭がぼーっと微熱がある状態が続いている感じです。ただよりメタなStage(神の視座)と自分の立ち位置の両方を人は身体という自然を通して同時に理解しうるのだということが分かったことは大きな収穫だ(体認はまだまだだけど(T_T))。
7月4日(火)
今光岡先生に勧められて数学者 岡潔のエッセイを読んでいる。中の一文に「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。…」というものがある。
これだけでHSYQ学習者の方には、岡潔さんの体認の深さがお分かりになると思う。もし、お時間があり、ご興味があれば是非手に取っていただきたい一冊である(下のお奨め本リンクからどうぞ)。
7月3日(月)
朝出かけるときは晴れていたのに、岡山駅で土砂降り!! 傘や雨下駄は用意していなかったので、こりゃしまったと思ったら、京都に近づくにつれ、またお日様が顔をのぞかせほっと一息。
さっそく問屋を二軒ほど回ったら、また雨が…(>_<)。仕方ないので、地下で雨宿り。そろそろいいかなと外に出ると空は晴れているのに雨が降っている、狐の嫁入りだぁ。
それでもかなり小雨になったので、最後の問屋をまわり、そこで一緒になったk屋さんと合流して、二件ほど新しい物作りをされている作家さんを紹介いただく。それから、久しぶりの会合。皆さんお元気そうで良かった。あちこち回れて新しいご縁も頂き充実した一日だった。
7月2日(日)
今日のKQKは12名の参加者。初心者の方がお一人いたが、ガンガン進む(^_^;)。とりあえず、KQKでは出来るだけ先に進むように心がけている。先に進めば前に行った事の体認が出来ているかどうかよく分かるし、またそこから新たな体認を得ることが出来る場合もあると考えるからだ。今日も歩法まで進んだが、それにより以前の動きを体認するきっかけになれば嬉しいけど…なかなか私の方が体認できてないので皆さんとまどうばかりかな?私も少しづつ体認していかないとね(^_^)b。会員の皆さんこれからもよろしくお願いします。
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